現実から、思いもよらぬ場所へ

司会:現代は映画や文学の芸術表現が狭くなりつつある閉塞感のある時代だけれど、いまは通過点なのかもしれないと仰っていました。その中で、ロルヴァケルのような監督が出てきた。「夏をゆく人々」という作品で、違う地平が開けた気がします。
イタリア映画は、やはり面白いですね。リアリズムの描写をみながら、なにか急にポケットに入るように、自然に日常から非日常という世界を描いていて、そうしたことを普通にやってしまう。これはフランスやアメリカの映画にはないものではないでしょうか。日常と非日常といったものをとらえる視線を、ロルヴァケル監督は自分のものにしているのではないかと。

岡本:“ファンタジスタ”という言葉を知ってますか? イタリアはサッカーが国民的なスポーツで、もちろんもともとはイギリスが発祥地で、国によってプレイの仕方が全く違う。イタリアのサッカーは守りに守って守り抜いて、カウンターでいく。人に言わせると、これは相手を疲れさせる作戦なので、ある意味ズルい(笑)。でも技術がないと出来ない。一方イギリスやドイツはガンガン攻めていくパワープレイをする。イタリアのサッカー選手にロベルト・バッジョという有名な選手がいましたけれど、彼は“ファンタジスタ”の代表格みたいな人で、他の人が思いもしないところへパスをしたり、ファンタジックなプレイをするんですね。現実に立脚しているんだけれども、ふわっと、人が思いもよらないことを考えつくことがイタリアの発想力なんです。
映画だとフェデリコ・フェリーニ監督、文学だとイタロ・カルヴィーノがちょっとそんな感じですね。もともとはリアリズムから出発しているけど、どこかでファンタジーの世界に入ってしまう。これはフィクションとは違う。フィクションとは、ありえそうだけど、ありえない話のこと。だけどイタリア人のファンタジーは現実から始まるので、根っ子があるんですね。何かの寓話になっているけれども、ありえない話ではない。そういう意味では、監督のアリーチェ・ロルヴァケルはしっかり大地に根を張っています。(これは本人に言うと嫌がるかもしれないけれど)、女性的な感性の持ち主だと思うんです。女性の感性というのは、とくに思春期の少し前、この年代の女の子たちの(特に女の子は男の子よりも鋭い目でものごとを見ているところがあると思うのですが)、鋭いけれど、柔らかい感性でもあるんです。実はアリーチェ本人にも少女のような輝きがあって、華があるんですね。夢をみているようなところがあるんです。それはこの作品にも通じるし、それこそこの映画の原題の《魅惑》が、この世界にはある筈だという、それを探して描こうとしているところがある。

司会:今の話の流れの、イタリア映画が持つある種のファンタジー、日常と非日常が近いというお話は、フェリーニの作品にも通じますね。私は宣伝の立場なので、ジャンルを決めないといけない仕事病みたいなのがあるんですね。

岡本:イタリア映画はよく言われます。どうやって宣伝していいか分からないと(笑)。

司会:私たちもこの映画を伝える際には「ひと夏の家族の物語」とか「少女の成長物語」といった説明をしていますが、タイトルも最後まで悩んで、「ジェルソミーナの夏」というのが有望なタイトル案としてずっと残っていたのです。でもやはり何か落ち着かない。この作品は枠にはまらない、ジャンルにはまらない感じが魅力なので、分かりやすいひと夏の青春物語にしていいのか、というジレンマが最後までありました。例えば、フェリーニの映画はファンタジーとして受けとめるから、それほど不思議じゃないけれど、やはり「夏をゆく人々」を、よりフィクションに近いものとして観ていると、身体をさらわれてしまう感覚があって、どうしてもジャンル分けができないんです。何とも説明できないところに迷いこんでしまう感じが、今でもしています。

岡本:フェリーニの話が出たのでついでですが、最後に誰もいなくなった家のシーンが映りますね。僕はこれ、フェリーニの「サテリコン」で最後が絵になって、引いていく感じ、あれに似ているような気がするんです。これも歴史の一コマなのだという感じがありますよね。彼女たちもここに来て、また他へ移っていく…。この映画は、土地とあの家の話でもある。エトルリアのことは、実はそんなに描かれていないですね。そういう土地だということを現わしているだけで。特に、最後に誰もいなくなるところが。

司会:日本人にはなじみのある感性ですよね。自分自身そのものが誰かの見ている夢かもしれない…というような。果たして自分の構成要素とはいったい何なのかとか、過去も未来も現在もが一切に含まれているかもしれないという時間感覚の曖昧さなどが漠然とある…。その点、このアリーチェという人はもの凄く頭の良い人で、それを非常に緻密に、意図的に、この映画で、ある世界を創ったのかもしれないとも思うのです。この映画のファーストシーンは暗闇から始まるのですが、彼女の1作目「天空のからだ」も暗闇から始まりますね。

岡本:たぶん、彼女のなかでは自然なのだと思いますよ。僕の想像ですけど、1作目も2作目も暗いシーンから始まるのは、手探りの感覚なのだと思います。1作目は、主人公のマルタが北のスイスから生まれ故郷の南イタリアへ戻ってくる訳ですが、お母さんは土地のことを覚えているけれど、マルタはよく覚えていない。手探りの状態から、徐々に学んでいく。「夏をゆく人々」に関しては、観客が手探りで彼らの生活に入っていく。暗いなかから、少しずつ彼の生活に入っていくということなのではないかと思います。

司会:ファーストシーンは暗い中、車で狩りをする人たちがきて、「こんな家があったっけ?」 と言い合うシーンから始まる。あのシーンが意外に長くて、しつこく撮っていますよね。それはさっき岡本さんが仰ったように、家がみた夢かもしれない、という見方のヒントなのかもしれませんね。

異邦人としてのアリーチェ・ロルヴァケル。そして全篇を貫く異邦感。

司会:唯一、監督に会ってらっしゃるので、先ずは、ロルヴァケル監督の印象をお聞かせください。彼女は、「夏をゆく人々」は自伝ではなく、“近所の人々のお話”という言い方をしていますが、果たして本当にそうなのでしょうか?

岡本:本当にそう思っているのでしょうね。アリーチェの親がドイツ人とイタリア人で養蜂業を営んでいたのも事実だし、お父さんはアグリトゥリズモ(編集部注:イタリアで始まった、田舎で農業に従事しながらきちんとした宿泊施設を営業してゆくというかたち)をやっているのも事実だし。そういう、要素としては自伝的なものがあるけれども、映画の中の人物像や家族関係は違う、ということだと思うんですね。
根本的なところで思うのは、ジェルソミーナ役のルングも元々は余所者で、ルーマニアから来ている。たまたま映画の原稿を書いている時、地元紙の記事をネットで読んだのですが、彼女はボルセーナ湖近くの山の上の、すごく眺めのよい所に住んでいるのだけど、「学校ではみんな私のことを嫌っていて、皆から距離をおかれている。ルーマニアではもっと自然でいられたのに」と言っている。確かに、映画にもそういうところがありますよね。もしかしたら彼女はルーマニアに帰りたいのかもしれない。彼女自身がアイデンティティを探しているところがあるのだと思うんですね。
前作「天空のからだ」でマルタを演じたヴィアネッロも、北部で牛と暮している農家の素朴な子。あの映画も、スイスから急に南イタリアへ戻るという設定ですが、彼女の異邦感というか違和感というか、その土地に馴染めない感じがすごく表現されている。それと同時に、自分のなかに強い根っこ子も持っていて、マルタにはなんらかの確信がある。実際のヴィアネッロも、映画が終わったら、「別に女優に興味はないから、田舎に戻って牛と暮す」という話をしていました。ルーツというか、遠いところに自分のアイデンティティがある。それが違う土地に来たときに何が生まれるのかというのが、この2作品のテーマであると思います。
これは、アリーチェ自身の物語でもあると思うのですね。実際アリーチェは、ウンブリアにも、そして一時期カラブリアにも住んでいました。その時、なぜ父親はドイツ人なのにここに来たのか? なぜここを選んだのか? 自分はイタリアで生まれているけれども、なぜこの田舎に来て、住んでいるのだろう? という問いかけは、ずっと持っていたのだろうし、そういう意味では自伝的と言えると思います。でも、「夏をゆく人々」で描かれている人物像は、彼女自身を映し出したものではないはずです。だからこの映画を観て、実際この辺で暮らしていたから、じゃあ、お父さんやお母さんがこういう人なのかと言われたら、そうではないし、それを描きたかった訳ではないから、自伝的かと問われると、腹が立つのでしょうね。

司会:仰るようにこの映画における家族全体が持っている異邦感が、作品の大きなテーマでもあると思います。彼女だけでなくて、家族全体がどこからか来ているという。もしかしたら時代設定もあるのかもしれませんが。異邦感は、いまの日本にいて、なかなか感じられないと思うのですが。この映画における異邦感を、岡本さんはどのようにみていますか?

岡本:70年代か80年代、都会を出て自然のなかでコミュニティを作って暮らすという政治的な考え方から、もっと人間らしい生活をとりもどす動きがありました。実際にドイツ人が立ち上げたコミュニティがあるんです。イタリアには、そうした共同体はいくつかあって、例えばカトリック系の共同体とか、麻薬患者の更生施設みたいなものとかが多くある。でもそれらは日本の更生施設とは違う感じなんです。そもそもイタリアでは、共同生活の考え方が違う。本来、人間のあるべき姿を求めて共同生活をしていく感覚と言うか。人間関係をきちんとして、自然と触れ合って、それが人間らしい生き方だという感性が広く社会に流布している。
映画では、父親のヴォルフガングは、「ミラノはダメだ」ぐらいしか言わないけれど、ココがヴォルフガングに、「農夫にさせたいの?」 と聞くシーンがありますよね。でも、それに親父は答えられていないでしょう?自分でもよく分かっていないんですよ。ただ単に都会はよくないという考え方なのです。また昔一緒に政治的な運動をしたような怪しい友人が登場しますよね。彼らには昔はイデオロギーがあった筈なんだけど、たぶんヴォルフガングはそういうことも嫌なんでしょうね。都会の生活が嫌でドロップアウトしたのか、あるいは単に人間関係が苦手なだけかもしれないけれど。例えば、神父さんに、「助けてやったんだから、金払えよ」とか言うシーンがあるけれど、あんな言い方、普通はしないですよ。でも彼は別に悪い人ではなくて、喋り方が分からないから、そういう言い方をしているだけなんですよね。彼自身のコミュニケーションのまずさから、田舎に逃げてきているのかもしれない。だから娘に何をさせたいのかもよく分からない。でも娘のほうは、とにかくやるべきことは分かっているという感じですよね。

司会監督のインタビューを読むと、普遍的な記憶について語る映画とか、どこか遠い世界を感じさせる映画というような表現が多いけれど、この映画の非日常的な要素を、岡本さんが仰ったように、絶妙に、無意識に作っている?

岡本:それはやはり彼女が余所者だからですよ。この映画でも、隣の農夫がいますよね。農薬をまいて、テレビにノリノリで出ちゃうような。彼やあの家のお婆さんは土地に根づいていて、土地と一緒なんですよ。全く同化しているから、土地の古い記憶とかを感じない。でも、ジェルソミーナの一家は他の土地から来ている。監督自身もそうで、ロルヴァケル一家も他から来ている。だからよけに歴史を感じる。あそこの土地の人だったら、あんな風には描けないですよ。

少女の不安定さを体現した、ジェルソミーナという存在

岡本:前作もそうだけど、両方とも姉妹の話で、男兄弟はいない。前作では、そもそもお父さんがいない。男の影が薄いんです。「夏をゆく人々」の男たちも、まともじゃないでしょう?圧倒的に女性のほうが人間として描かれている。マルティンだけ特別だけど、彼は彼でヴォルフガングに似ていて、人とちゃんと接することが出来ないから、それで非行に走ってしまう。彼は喋れないし、触られるのも駄目。突然訪ねてくる謎の友人もそう。まともな男が1人もいない。

司会:実際に岡本さんが監督に会った際に、彼女自身も少女のような輝きがあると感じられたと。また監督は、主人公の年齢は関係ないと仰ったそうですが、やはり13~14歳くらいの少女の、独特の不安定さの表現が見事だと感じました。個人的なことでいえば、ここまで思春期の自分の何かを呼び起こされるような作品には出会ったことがありませんでした。少女の不安定さと、ある種の輝きが同居している。

岡本:「夏をゆく人々」に関しては、ある意味、ジェルソミーナが一番大人な訳でしょう。お母さんよりも大人ですから。お母さんは分からないから、何も言えない。彼女が一番、本質的なことを分かっている。でも感受性が強すぎで、脆いところもある。別の監督作品で、前にイタリア映画祭でやった自伝的な映画があるんですけど、そちらはもっと大人の女の子が主人公で、反抗的で、「誰も私を分かってくれない」と突っ走る。それが典型的な思春期の表現ですよね。でも、この映画を観ていると、ジェルソミーナは辛そうな感じではない。むしろ僕から観ると、彼女はすべてを知っているんだな、という風にも見える。
前作もそうでしたが、マルタはまだ子どもだから反抗的に見えるんだけど、誰も分かってくれないというよりも、「どうして皆、分からないのかしら?」 という感じですね。前作は同じ姉妹の話でも、お姉さんがいて、このお姉さんがちょっと感じの悪い子なんだけれども、最後は和解していく。一方、ジェルソミーナは、マルタと年齢は一緒だけど長女という設定が、「夏をゆく人々」の外郭を作っていく。

司会:ジェルソミーナとマルタについて、あるいはそれぞれを演じた二人についてもう少し教えてください。

岡本:ジェルソミーナを演じたマリア・アレクサンドラ・ルングはルーマニア出身で、6歳ごろから、ボルセーナ湖のすぐ南、モンテフィアスコーネに住んでいます。彼女は土地の言葉を話すのですが、これはよく聞くと、母親役のアルバ・ロルヴァケル(注:アリーチェの実姉)と同じ話し方です。アクセントが一緒なので、あの辺りの言葉だと分かるんです。でもルングの顔をみると、現代のイタリア人の顔ではないですね。アリーチェは、ルングはピエロ・デッラ・フランチェスカの絵に出てくるような顔をしていると言っています。「天空のからだ」のマルタ役のイーレ・ヴィアネッロも、おでこから鼻の上がつながったような顔なんですね。アリーチェに会う前、自分と似た子を使ったのかなと思っていたら、全然違う顔でした。お姉さんともあまり似ていなくて、アルバのほうがドイツ的で、アリーチェはイタリア的なラテン系のハイブリッドな顔をしています。

舞台となったイタリア中部の美しい土地

司会:映画の舞台となった、イタリア中部にあるボルセーナ湖や、この辺りのエリアについて教えて頂けますか?

岡本:イタリアの中部は平たんで、あまり山がないんです。ローマの周辺にも、法王が休暇に行くカステッリロマーニとかに、いくつも湖があるんです。ここは同じラツィオ州内でも、ウンブリアやトスカーナのすぐ近くなので、広い平原のなかに、電車からでも大きな湖が見えるんですよ。一方、北の方に行くともっと深い湖があって、全く雰囲気が違うんです。イタリアにはけっこう湖がある
トスカーナ州のもっと西へ行くと海があり、ああいう感じの農家が今でも沢山あるんです。あの辺りに別荘を持っている友人がいるんですが。それから、車のコマーシャルやカレンダーに使われるような、シエナの丘陵地帯の、もの凄く綺麗なところがありますよね。この映画の撮影場所は、それよりも少し南のほうで、もう少しワイルドな土地の感じがします。マレンマ地方という干拓された地帯があって、ローマの南のほうにも湿地帯があるのですが、そこに近いかな。前は人が住むようなところじゃなかったけれども、干拓されて、今は住めるようになっている。

司会:監督は、この映画は自伝ではないと言っているし、今回のロケ地から60キロ離れたところに住んでいて、60キロはとても遠いから全然違うのよ、とインタビューで仰っていているのですが、ロケ場所の必然性についてはどう思いますか?

岡本:やはり自分の知っている土地に近いと思いますよ。あの湖の周辺は、感じが近いはずです。彼女が住んでいるのはウンブリア州なので、もう少し東北のほうですが。あの辺りはずっと平たくて、開けている感じです。観光地化もあまりされていなくて、ちょっと鄙びた感じで、夏に行くと良いなと思いますね。

司会:観光写真に出ているような土地とは違う?

岡本:イタリア人しか行かない土地ですからね。プッリャ州とか地図上の踵の方に行くと、ドイツ人とかが夏に押し寄せて来るらしくて、もうたまらないという話を聞きます。イタリア人はわりと、人がいない土地に行きたがるんです。この辺りは素晴らしい土地ですよ。実際、水浴びしているシーンも、他に人がいなかったですからね。映画に出てくるのは、ビゼンティーナ島で、カポディモンテの真向かいにあるところですね。そのすぐ横にも島があって、そちらは私有地で、立ち入り禁止でした。
話がズレますけど、ポー川の河口の辺りは、観光で行く人は誰もいないけど、よく映画のロケ地にはなっているんです。アントニオーニとかロッセリーニとか。オルミも。まあ、オルミはもう少し上のほうかな。ロケーションに向いているところが、たくさんあるのですね。だからこの映画の感じは、イタリア人にはよく分かるんです。日本だと、軽井沢の別荘地とかではなくて、南阿蘇とかの辺りの感じに近いですね。

ロルヴァケル監督に通底するもの、そして俳優の演出

司会奥が深いですね。私たちが作ったイタリア像があって、それはまだまだスパゲッティナポリタンを越えてない、という気がします。

岡本:アリーチェにとっては、ごく自然の経緯で出てきた話やロケーションであり、家族の物語だと思うのだけれど、タイムリーなんですよね。ここしばらくのエコロジーへの流れとか、特にヨーロッパやイタリアの人はスローフードやアグリトゥリズモに気持ちが向いていますからね。人間本来のものを求めている。
もともとイタリア人は、バカンスに行くときに、電話も繋がらないところに、2週間とか、1カ月とか行く。電話の繋がらないところに行かないと、意味がないと思っている。人との関係を断ち切って、それまでの仕事からも離れて、もっと自分らしい時間を持つ。それでバカンスの後はまたクリエイティブな仕事をしていく。アリーチェがネットの繋がらないところに住んでいるのも、不便なところにいようというのではなく、そっちの方が人としてまともでいられるからだと思いますよ。ヨーロッパ、特にイタリアではそうした考え方をしている人が多いので、「夏をゆく人々」が描いている世界は、わりと分かりやすいと思うんです。
アリーチェは、自分がそういう環境で生まれ育って、そういう価値観があるから、それをベースに映画を撮っているわけですが、ともすると、ただのペラペラの話になってしまう可能性もある。養蜂業の描写にしても、ドキュメンタリーっぽく撮っている訳ではなく、そこに大地の感触みたいなのがあるのですね。そこに美しさが感じられる。でも逆に言うと、とんちんかんな父親が、13歳の娘がラクダを喜ぶと思って買ってきちゃうところの描写は、フェリーニに繋がるものがあります。そこにマルティンのような異分子を入れる。それらは計算づくじゃないところが、やはり女性らしいと思う。緻密な計算と演出をしているのではないかと、先程おっしゃいましたが、僕は逆だと思ってます。男性は計算するけれど、女性はもっと感覚的に撮っているんじゃないかと。またアリーチェに怒られそうですが。

司会計算を越えていますよね。

岡本:どうやって役者の演出したんだろうと思いますね。

司会:俳優たちの絶妙なバランスが見事。

岡本:イタリア映画は伝統的に、プロの役者と素人を混ぜて使います。それがちょっと不自然というか、ぎこちなくみえるところがあって、それを活かして映画にしてしまう力がイタリア映画には昔からありますよね。

司会:プロの役者ということで、今回日本人にとっても馴染みの深いモニカ・ベルッチが登場します。イタリアでは、彼女の出演に関して何か評価があるのですか?

岡本:僕も何故モニカ・ベルッチなのか、全然分からないですね。聞きたいくらいなんだけど(笑)。

司会:モニカ・ベルッチが、後半かつらを脱いでしまうシーンがあって、あれからどんどん夢の世界に入っていきますよね。夢が覚めるのと呼応するように、非現実の世界へ入っていくんですよね。

岡本:ぼくは、モニカ・ベルッチの描写だけは、何を意図しているのか分からないんですよ。ただ、彼女はペルージャ出身なんです。古典的なイタリア人の顔立ちなのは間違いないです。例えばソフィア・ローレンやジーナ・ロロブリージダのように。目がこんなに大きくて、南部ではなくて、中部あたりの女性の感じがありますね。エトルリアを想起させる役として、イタリアでも顔が知られている女優さんということで選んだのかな。しかも、けっこう難しい役ですよね。あの役をやっても可笑しくないようなキャスティングというと…。

日本だったら90年代のSPEEDのヒット曲?

司会:エンディングに使われている曲について教えてください。ラスト、あの誰もいない家の後にタイトルロールが始まると、またあの曲が始まる。あの感じが不思議です。

岡本:あれは20年くらい前の曲でしょう?イタリア人が聴いたら、過去の曲なんですよね。90年代にヒットした曲で、その年代のイタリアはかなりバブリーだったので、近いけれど遠い過去を感じさせるんです。たかだか20年前なんだけども、それ以上に断絶というか、まったくどこかで時代が変わったという感じがあります。それは21世紀になったからとかそういうことではなくて、断絶を思い起こさせる歌だと思いますね。

司会例えば同じようなシチュエーションで、日本で映画を作って、90年代の歌謡曲を流すと?

岡本:小室哲哉の曲かな?あ、いや、感じとしてはSPEEDです。歌詞の感じも、凄く若い子が背伸びしている、あの感じです。

司会それが映画の最後に流れるのって、シュールですね。

岡本:だって、凄く昔の感じがするでしょう?