ノスタルジックでは片づけられない

司会:宣伝の立場からですが、非常に惹きつけられると同時に、魅力に溢れすぎて、どうこの映画を説明していいかわからない、というジレンマの中にいます。

寺田:少なくともひとつのジャンルには納まらないですね。どこに当てはめてもしっくりこない気がします。「文句なしにいい作品というのはそこに表現されている心の動きや人間関係というものが、俺だけにしか分からない、と思わせる作品」(『真贋』2007年)という吉本隆明さんの言葉のように、観た人それぞれの物語になりうるところが、この映画の一番素晴らしいところだと思います。

大島:何にも、どこにも括れないですよね。

寺田:わたし自身や、大島さんが感じたことのなかにもまだ揺れがある。ひとりの個人の中でさえ、無限の解釈が広がる映画ですね。それと同時に、自分の子供時代を想起させるから、ある意味しんどい(笑)。

大島:自分の中に封印してたものが突如として飛び出してくる感じ、よく分かります。

寺田:わたしは、この映画を観ながら、自分が何歳で、どこにいるのか分からなくなってしまいました。久しぶりに子供時代に触れた思いです。しかもハッピーなことばかりではなく、むしろ苦かったことばかり(笑)。

大島:子供時代のあの苦さ。

司会:二度と戻りたくない時代(笑)。生き辛い、不自由な時代です。

寺田:子供時代の、どこにも行けない、閉じ込められた感じが甦り、物思いにふけってしまいました。

大島:だからこそ、ずっと思い出していく映画になりそうです。

寺田:映画の世界と自分の人生とが地続きになっていて、記憶の層が繰り返し、繰り返し刺激される感じ。もう、いい年齢なのに、ここまで感情が引き出されるって驚きです。

司会:自分の思い出の懐かしい部分が美化されて、映画と重ね合わせて胸がキュンとする瞬間もありました。

寺田:懐かしさってポジティブな記憶に対して感じることのようであるけれど、ネガティブなものに対してもあると思うのです。それも含めて懐かしく思い出させてくれる。心地よさと痛みがないまぜになった名状しがたさが懐かしさの総体なので、ひとつの言葉にあてはめてしまうとどこかずれてしまう。この映画には、紋切り型でくくることを拒むような厳しさがあると思います。それは、例えば“女性監督”とか“自伝的”とか“成長譚”などのイメージに固定することを許さない厳しさ。

大島:家族とか成長とか夏の物語とか、典型的な紋切り型の物語を見せつけておいて、全然違うものを感じさせますね。そういえば、オリジナルのタイトルは?

司会:イタリア語で「不思議」という意味のタイトルです。

大島:まあ本当に「不思議」な映画ですよね(笑)。


思春期という不安定で孤独な時代の娘と、そして父。

司会:先程のお話にも通じますが、思春期のジェルソミーナをどうご覧になりましたか?

寺田:子供の時って明るく無邪気で不安のない、ある意味、人生で一番幸福な時代って思われがちですが現実はそうじゃなかったと、彼女を見ながらまざまざと思い出しました。
むしろあの頃のほうが今より悩みが多くてきつかった。とくにこの映画で印象的だったのは、ジェルソミーナと両親、ことのほか父親との関係です。あのお父さんは生き辛さを抱え、地域コミュニティとの折り合いも良くなさそうですが、なぜ自分がそうなのかわからないまま、家族だけを頼りに人里離れたところで生活している。自然農法を取り入れた養蜂や、素朴なライフスタイルを営む一方で、親としても大人としても成熟した感じがしない。長女としては、どうしても親のことが気にかかる。いつも親の心配をし、彼らを幸せにする責任が自分にあると思いこんでしまう。その重圧がつらい。実際、子供っぽく、はじけるような彼女の笑い顔が映画のなかではほとんどなかったですね。子供の時ってそうだったな、常に親の世界で生きざるをえない苦しさがあったなと。

大島:長女と次女の年齢が少し離れていますよね。姉としての責任感を感じるシーンが多々ありました。親も気になる、妹たちも守らなければという責任感。わたし自身は次女だからあまりそこまで親のことは考えなかったけど、今考えると姉はそうだったかもしれない。でもこの年齢で、ここまで家族のことや養蜂のことも考えるって何だろう?

寺田:たぶん親が頼りないから。まあ、お母さんは彼女なりに精いっぱい愛情を示しているけれど、お父さんは未熟すぎます。

大島:でもお父さんは亭主関白ですよね。強権的というか父権的な、逆らえないところがある。

寺田:DVとかのボーダーにいる人ですよね。支配的で王様のようにふるまっている人ほど、じつは依存的であることに無自覚です。

大島:ジェルソミーナは子供っぽくない、この家族の中では一番大人。お父さんもそれが潜在的にわかって接している。父親は娘に依存的ですよね。

寺田:お父さんはジェルソミーナを、ことのほか頼っている。もしかしたら奥さんよりも頼っている。いつも「ジェルソ!」「ジェルソ!」って。

大島:ジェルソミーナだけが愛されている…。

寺田:でもそれは、成熟した親の愛と言うよりも、娘にすがりつくような愛。だからあの見当違いのラクダを娘にプレゼントしちゃう。喜んでほしい一心ですが一方的です。彼女をよく理解しての贈り物ではない。あの時のジェルソミーナの気持ちがよくわかります。ダメ親へのやるせない気持ちがあのシーンにあふれている。子供のころは父親が好きだったのに、いまはそうでもないっていうジレンマを抱えながら、それでも愛している。父をすでに超えているのに、そう感じてしまう心をどうしていいかわからない、それを父親は理解したくない、できない。

大島:どっちが子供かわからないですよね。そうであってほしいという願望しかなく、成長した娘は拒絶している。

寺田:それにしても次女をないがしろにしすぎですよね(笑)。それゆえに次女は独特の世界にいる。蜂に刺された棘を父が娘にとらせるシーンがありますが、父は「ジェルソ、ジェルソ」とばっかり。次女に触らせようとしない。これでは次女は辛い。もう独自の道を歩むしかない(笑)。わたしは長女で、弟という兄弟の構成でしたから、長女の重圧感はよく分かります。

大島:わたしは3人姉妹の真ん中で、姉は4つ上なので、この家族となんとなく姉妹の構成が似てるんです。父は早く亡くなったのですが、私は父が大好きだったし、大事にされたとは思います。この家族と同じように姉はしっかり者でしたね。一つ下の妹は身体が弱かったから大事にされてた。だからわたしはいい子にしないと、そして父に褒められたいと思っていました。だからなのか、その頃は、置いてけぼりの夢をしょっ中見ていて、父を追いかけて2階の窓から飛び降りる夢とか見てました。トラウマになりましたよ(笑)。

寺田:親の関心が特定の子に集中するのを見せつけられるきょうだいは辛いですよね。自分の存在意義を見出したくて、葛藤しませんでしたか?自分のポジションとか役割とか、考えますよね。

大島:母はわたしを妹と同じように扱ってくれたけど、父は一つしか違わない妹の宿題をみろとか、いま思うと不条理なことを言われて。なんで?と思っていたけど、褒められたかったから、そうしてました(笑)。

寺田:子供にとっては、親の価値観や彼らの背負った世間が「世界」のすべて。その中で自分の存在を認めてもらい、愛される価値があることを証明しなければならない。だから子供時代は決して自由じゃない。親に規定される世界でどう生きるか、がすごくリアルに伝わる映画です。

家族というやっかいなユニット

寺田:この家族は小さなユニットになっています。他から隔離され閉ざされているから、一見辛い状態の家族になるけど、それを救っているのは、居候のココという女性や、突然やってくる父親の友人らしきおじさんですよね。彼はあまりにガラが悪いから、お父さんが刑務所で知り合った人かと思ってしまったけど、なんの説明もなく謎のまま。そこがいい。わけのわからない関係性が、あの煮詰まった家族関係に風を通してくれる。父は世間との折り合いが悪そうなのですが、ああいう登場人物が投入されることで風穴が開き、そのせいでジェルソミーナもそれほど追いつめられなかったことが救いでした。

大島:父親はやってくる人を受け入れられないわけではない。度量はあるけど不器用なのでしょうね。

寺田:でもマルティンを受け入れたのはお金のため(笑)。息子を持てないことがコンプレックスになっていたから、マルティンを息子として受け入れた部分はあるかもしれません。家父長的な価値観に縛られた人ですから、そこもジェルソミーナは辛いでしょうね。自分が男の子より価値がないものとして扱われているから。でもどこかに、ほっとする気持ちもあったと思う。マルティンの登場で、家族を、父親をそこまで背負わなくていいという開放感も感じたはずです。

司会:家族の形態として、どう見ましたか?

大島:昔の家族の姿ではありますが、形を変えていまでもありますよね、ああいう家族。

寺田:ライフスタイルは別として、ああいうメンタリティの家族は洋の東西を問わず、連綿と続いていると思います。父は支配的なわりには頼りない。娘にすれば「恥ずかしい父」。ジェルソミーナはそう敏感に感じながら、そう感じちゃいけないって、自分を抑圧してる感じがあります。

司会:いま新書の「家族という病」(下重暁子:著)という本がベストセラーになってます。家族ほどやっかいなものはない、呪縛から逃れるのがいかに大変かということを共有できる時代になったのでしょうか?

寺田:20年くらい前からでしょうか。「母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き」(信田さよ子:著)などもロングセラーになっています。家族内の権力構造や子供の生き辛さから、“毒親”というキーワードも生まれている。これまではおもに団塊世代から団塊ジュニア世代の間で言われてきたことが、下重さんのようなシニア世代も苦しいと表明し始めたことは、新しいと思います。

司会:家族映画としても秀逸ですよね?

大島:家族の日常が丹念に描かれていて、でも事件が起こるわけではない。ひとりひとりが丁寧に描かれていて、どんどん引き込まれます。ドキュメンタリーのような魅力もある。

寺田:親との関係に起因する生きづらさをテーマにした作品としては、グザヴィエ・ドラン監督の「Mommy/マミー」やヴィンセント・ギャロ監督の「バッファロー‘66」などを思い出しますが、この映画がそのことでそれほど息苦しさを感じさせないのは、家族が養蜂や自然とともにあることや、神話的世界の浮遊感が盛り込まれたことで作品の輪郭に不思議な余白が生まれたから。そこが映画としての心地よさにつながったと思います。

一瞬の輝きを経て…

寺田:後半のTVのコンテストシーンあたりから、幻想小説のようになっていくくだりは圧巻です。わかりやすい涙も感動も絆もないのに、ぐっとくる。とくに洞窟シーン。どうしてあのシーンがこんなに心に突き刺さるんでしょう?自分のどんな琴線に触れるのかいまだに分かりません。影絵が写り、そこに手を伸ばして触れそうになるシーンは、何度思い出しても胸が熱くなる。それにしてもマルティンは何者でしょうね?

大島:触れられるのが嫌な男の子が、女の子と抱きしめ合って一緒に寝てるという、感動のシーンが見事。

寺田:マルティンも現実的にみれば辛い立場です。あの年齢で親と離れ、非行少年で、国境を越えてあんなところに預けられ、その処遇がうまくいかなければ少年院へ送られるという、とてつもなく厳しいポジションにいる。が、それについてなんの言及もない。あの子は黙ったまま、最後までひと言も発せず、美しい口笛を吹くだけ。

大島:どんな子かわからなくても、ジェルソミーナは最初から受け入れていますよね。

司会:ふたりは互いの孤独と哀しみを受け入れており、心の深くで分かり合えている。でもあのふたりはこの先、会うことはないように思います。私は、マルティンは妖精だったと思う(笑)。ジェルソミーナと大切ななにかを交換し合ったあと、森に帰っていった。ジェルソミーナはそのことによって少女から大人になって家族のもとに戻っていけた。

大島:みんないろんな想像ができる。そういうのがいい映画ですね。

寺田:マルティンとジェルソミーナは出会った早い時期に、心の琴線がふれあう瞬間があったのだと思う。言葉がなくても、同じ種類の人間であり、他の人にはわからない気持ちを共有できる相手だという確信を持てた。だから少年は口笛をふき、少女は口で蜂を遊ばせることができた。2人のあのハーモニーは心が重なっていないと出来ないことでした。

大島:わたしにとって、マルティンは「妖精ではなく人間」派なんですが(笑)、彼は愛を受け取った。でももう戻ってこない。ただどこかで生きている。そう思いたいですね。

司会:その愛を想うことで、ジェルソミーナはこれからも生きていける。

大島:洞窟で分かりあえることがあったから、ジェルソミーナは帰れた。何かを確信して。

寺田:はい、たしかにそういう見方もできます。マルティンが妖精でないとしたら、どこかでそれなりに成長し、普通の世間ずれした大人になっていく予感がします。人は、生育環境や教育や出会う人によって規定される部分が少なくないですから、この先、彼の前に一発逆転の輝かしい未来がひらけるとも想像しにくい。薬やアルコールや暴力に巻き込まれなければ上出来、というような人生において、あの夜、あの洞窟の、あの瞬間の輝きだけは「永遠」と呼べるほど特別なものだった。それを際立たせた物語だとも思えます。現実的でごめんなさい(笑)。

大島:でもジェルソミーナは彼を見捨てないでいてほしいな。彼女はどうなるかしら。

寺田:彼女もまた、あの時は輝いていたけれど、意外に失速していくかもしれない。やるせなく、退屈で、口うるさい中年女になるかもしれない(笑)。そうだったとしてもいいよ、と思えるのです。なぜならあの素晴らしい一瞬があったから。