ファンタジーなのに、リアルを積み重ねていくということ

司会:それぞれご感想を伺えますか?

金原:ファーストシーンから印象的でした。暗闇からヘッドライトが見え、猟銃をもった男たちと猟犬がやってくる。次にライトがあたって古い家が写し出される。この家にまつわる話なんだなと、ぼんやりと思う。いきなりカメラが家の中に入ると、たわいもない生活が営まれている。家族が寝ている。さらに女の子がおしっこをしたいという出だし。いったい何が始まるか想像しがたい。そしてラストには最後誰もいなくなった家が映し出される。もしかしたらこの家族はいなかったのかなと思う。ファーストシーンとラストシーンが印象に残る映画でした。
映画自体はリアルな家族の物語なんだけど、全体としてはファンタスティックですよね。“家がみた夢”を観たのかなと思わせるような内容でした。そこが一番面白かったですね。そう考えると、家族が浮いているような感じがします。そこにぽっかり宇宙があるような。なんとなく、家がみた、ひとつのファンタスティックな夢のような気がしてなりません。

古内:家の記憶のようなところはありますね。さらにいうと時代が分からない。現代の話なのか、すこし前の話なのかわかりませんよね。さっきお話に出た、ファーストシーンで次女がトイレに行くシーンなのですが、全体の空気感はファンタスティックで美しくなりそうなのに、すごくリアルなシーンを持ち込んでくる。

金原:おしっこしちゃいますよね、リアルに。

古内:そういうところが女性監督が描いている感じがとてもします。ジョン・セイルズ監督の『フィオナの海』という映画を映画会社に勤務していた頃に宣伝を担当したことがあるんです。その作品はアイルランドを舞台に、姉が弟を探す旅をファンタスティックに、民話風に描いた作品なんですが、初めその映画を思い出したんです。でもどこか違う。リアリズムの問題ですね、違いはきっと。
『夏をゆく人々』はファンタスティックに見えて、その実リアルなところがたくさんある。お父さんはよかれと思ってラクダを娘に買ってくる。もう長女にとって欲しいものはラクダではないのに。彼女が本当に欲しいのはモニカ・ベルッチ演じるTV番組の司会者からもらった髪飾り。そこには、ある種の断絶がありますよね。そして髪飾りはここから出ていきたいという気持ちそのもの。そういう思春期の少女の気持ちがリアルです。

金原:それはすごく感じました。ここから出て行きたいという、長女が抱える閉塞感と父親への反抗心。一方での愛おしさ。
リアルということを言うと、みんなベッドでごろごろしているファーストシーンから始まって、次女のおしっこのシーンがあって、スイカを食べるシーンがあって、みんなリアルなシーンで繋がっている。いったいどんな物語が展開するのだろうと観ていくと、あまり物語らしいものはなくて、そこに男の子がやってきて、かすかに家族関係が動いていく。TV取材のことがあって少し盛り上がりそうなんだけれど、相変わらず話としては盛り上がらない(笑)。やがて男の子はいなくなっちゃうし、戻ってもこない…。

古内:わからないことを、わからないままにして、観客に委ねてますよね。うらやましいですね。今の時代は分かりやすさを、求められるから。

金原:映画はまだそれが許されている。お母さんが娘に「実はね…」と言いかけて、そのままになるシーンがありますよね。解決されないままになる。ああいう作り方は小説だとちょっと難しい気がします。

取り残される場所。そして人々の葛藤

古内:家族の描かれ方と同時に、田舎の描かれ方も面白かったですね。TV番組がああいった文明が残る場所に行き、ありがたがっているシーンなどが。いま小説現代に奥三河を舞台に花祭りにまつわる『花舞う里』という作品を連載しているんです。700年の歴史がある花祭りの神楽にまつわる、少年少女の物語なのですが、それを思い出しました。監督がインタビューで言っているのですが、製作への衝動というところで、ノスタルジックな場所への現代人の思い入れと、そこに根差して生活している人々との感情の違いが、製作の動機となったとおっしゃっています。同じように奥三河もすごく山深いところで、「時が止まったようなところだな」とわたしもつい思ってしまったのですが、実際には神楽を舞う子供たちや山伏の子孫である花太夫など現地の方々は、人口減など多くの葛藤や問題を抱えています。そのような祭りが残っているところが珍しいので、テレビや新聞等が多く取材に来る。でもそれによって観光客などの誘致になるから、取材などがないと祭り自体が続かないという…。でも子供もいないし、花太夫自身もご高齢だし、そもそも祭りをやれる人自体がどんどん少なくなっていく。700年の祭りをどうやって繋いでいくかということのジレンマに陥っているわけです。

金原:それはこの映画にもどこか繋がりますね。

古内:ええ。だから監督の言っていることがよくわかる気がしました。「“中世の世界”と憧れのように言いますが、それは私には牢獄なんですよ」ということが。奥三河の人たちの言っていることとすごく重なるんです。まるでタイムカプセルのように、そこだけ文化が継承されている。外からみれば、伝統や芸能が残っていて素晴らしいですねと簡単に言われても、そこには深い葛藤があるんです。「守っていかなければなりませんね」と、外部の人が言うような簡単なことではないはずです。
ジェルソミーナは父の蜂蜜作りを尊敬しながらも、髪飾りが気になる。都会にあこがれている。そういう引き裂かれ方が観ていてつらかったですね。そういう思いが監督の中にあって、それが映画に自発的に表れているのかなと思いました。

1968年というターニングポントを経て…

金原:ジェルソミーナはここから出て行きたいという衝動を抱えている。外に対する目があちこちに見え隠れしますよね。それが父に対する反発となって表現されていたり。ふたりの葛藤が描かれているあたりがこの映画の面白さでもあります。ジェルソミーナのベッドのわきにフロリダの旗があるのも面白い。
ところが意外にも伝統的な家族として固まっているわけではなく、父親はドイツ人、母親はイタリア人と、いってみれば混血のような家族であることがまた面白いですよね。在る意味時代を背負っているようなところが感じられます。ドイツ語とフランス語とイタリア語が行き交うおかしな感じも興味深い。お父さんが怒鳴るときはドイツ語。一方イタリアの方言で話している中に、ドイツ語とフランス語も交じっていく。ごちゃまぜの感じがしっかり描かれている。監督の育った環境がそうだったらしいですね。

古内:でもその多くの説明があまりされていない(笑)。

金原:そうですね。なぜこの二人が結婚したかも描かれていないし。ココという存在も不思議ですよね。気になる存在です。ココがいるかいないかで映画の引き締まり感が違う。いい緊張感を与えてくれる人物です。非常に魅力的だし。でもどこからやってきたのだろう?

司会:監督のインタビューにあるのですが、1968年政治の季節以降が時代設定ということでしたので、もしかしたらその時の同志かもしれないですね。

金原:異なる過去をもちながら、同じ理想をいだいている人々がイタリアにもフランスにもギリシアにもいて、ある種の理想郷、コミューンを68年以降に築いたというのは考えられますよね。浮島のような存在の人々。ヒッピーでもないし、都市からの移住者とも呼べないような人が多くいましたから。登場人物たちは、何の説明もないけれどどことなく魅力的です。

古内:68年以降のイタリアのバックグラウンドをもう少し知りたいですね。

金原:1968年以降と知ってみると、また別の意味で面白い。ある世界を切り取ったということでは作品として完成しているけれど、いろんなところに広がりをもっている作品だと思いました。背景などを知ることでまた別の見方ができます。
例えば60年代のアメリカの反体制の学生運動が世界に飛び火して、パリのカルチェ・ラタンなどでも学生の蜂起があった。若者が文学にも音楽にも影響を与えた時代ですよね。50年から60年代に入ってくると、アメリカでは若者文化が台頭してくる。それまで若者という存在はなかった。50年代にはじめて若者が誕生するんです。それまでは子供と大人と言う二層構造しかなかったと言われてます。音楽も洋服も大人と子供向けしかなかった。アメリカが経済的に発展し、高校や専門学校が増え、お金を使えるようになり、若者というマーケットができたのが、50年代。若者向けのロックンロールという音楽やファッションが出てくる。その前、その世代は「ぶかっこうな世代」といわれていたんです。なぜかというと子供服をパンパンに着ているか、大人服をブカブカに着るかしかなかったから(笑)。若者はかっこいい存在ではなかったんです。若者文化が出てきて、初めて若者ってかっこいいという認識ができていく。そんな中で映画も若者向けの映画が出てくる。自分たちの文化や価値観を考え始めた、そんなときにベトナム戦争が起こり、反体制運動などが起こってくるわけです。そのときから子供・若者・大人という三層構造が出来上がってくる。60年代は、ヨーロッパでも日本でも、若者が自分たちの価値観を作り主張していった時代であり、ヒッピーやコミューンを作っていった世代。そういう背景からみるとこの映画はまた違った面白さがある。イタリアではそのあたりがどうだったか、詳しく知りたいですね。世代や時代で改めて観ると、この映画は一味もふた味も違ってきますね。

魅力的な登場人物たち

金原:男の子のマルティンはどうなったと思いますか?

古内:幻想だったのか、妖精だったのか、そもそもいなかったのかといろいろ想像します。
この映画自体が記憶の物語ですよね。ココだけは生々しくマルティンに触ったりするけれど、彼は淡いイメージ。異性を意識させる存在ですね。
父のキャラクターも魅力的です。どこか娘に甘いあたりもリアルで。厳しい父のように見えて、結局TVにも出るし、扮装もする(笑)。暴言を吐くけど、決して嫌な人ではない。

金原:すごくうっとうしいけど(笑)。

古内:でも登場人物すべてが魅力的で瑞々しい魅力があります。モニカ・ベルッチはいかがでしたか?

金原:妙にしわが増えて、老けた感じが面白かった(笑)。

古内:生身の人間に戻った瞬間ですよね。彼女の二面性と言うか、裏腹なところが良かったです。かつらを取ったのは、ジェルソミーナに本音をいうために敢て取ったのだと思いました。「本当はあなたに賞をあげたかったのよ」という気持ちを本音で伝えたいという、必死な思いの表現だったのでは?舞台衣装を着ているときは、偶像であるがゆえに本音がいえなかったのだという、彼女の葛藤を表現したのかと思いました。

金原:でもそこで初めてふたりが触れあう感じがしましたよね。

古内:いずれにしても二面性がある映画ですね。ファンタジーのようでありながら、純粋なものが報われるわけではないという現実を突き付けてくる。

金原:あの映画において、誰一人報われるわけではないですよね。

古内:でもそれが嫌な感じがしない。それでも認め合う感じがいいですよね。娘が本当に欲しいものを父はくれないし、父が本当にあげたいものは、娘は欲しくない。でも愛情はある。せちがらいけど絶望ではない。

百年の家で…

古内:彼らが営む養蜂は、伝統にのっとった素晴らしい養蜂かもしれないけど、裏側を見るとちょっと引きました(笑)。あのこぼれてしまった蜂蜜は、その後ビン詰めして売ったのでしょうか(笑)。その一連のシーンをアップで撮っているので、この監督一筋縄ではいかないなと思いました。きれいごとじゃないところが独特で、魅力がある。蜂蜜が手にまとわりつくようなところも生々しいし、実感がありますよね。 
女性監督は五感を捉えるのがうまい。気持の良さと気持ち悪さの裏腹な感じが触感となって伝わってくる。ココがサンダルで踏みつけた蜂蜜を、その直後TVの担当者が食べて美味しいというあたり、女性の感性の鋭さと意地悪さ(笑)。 

金原:確かにそういうところに惹きつけられます。男の子が現れて、家族でスイカを食べるシーンでの、女の子たちの表情。舐めるように見てしまいました。何が面白いということでもないけれど、じっと眼をこらしてしまう。

古内:口から蜂が出てくるシーンにもびっくり。

金原:グロテスクでもあり…

古内:エロティックでもあり…。オリジナルポスターの絵が気になりました。撮影はCGを使っていないというから、どうしたのかしら。蜂使いにならないとむりですよね。
それと、やはり景色が素晴らしかったですね。光の加減とか。あの家も素敵でした。

金原:実は監督が家のロケハンをしたときに参考にしたというイタリアの「百年の家」という絵本は、日本でも長田弘さんの翻訳で出版されているんですよ(講談社刊)。イタリアのインノチェンティという画家による絵が素晴らしいです。今日は持参しました。まさに映画に出てくる家のように美しく、でもやがて朽ちて行く姿を時間の経過とともに描いたものです。作者は、アメリカから移住してきた男の娘さんらしい。そういう意味でもこの映画になにか近しいものを感じます。

古内:人は死んでいきますが、家は壊さない限り残っていきますね。